2016年4月29日金曜日

三角マークの映画館

三角マークとは、東映映画のことです。



東映映画のオープニングといえば3つの岩に荒波が打ち付け、三角形のロゴマークが飛びだすシーンである。3つの岩は、東映の前身である東京映画配給、太泉映画、東横映画の3社の統合と結束をイメージしている。




社内での正式な呼び名は「荒磯に波」である。撮影場所は千葉県銚子市犬吠埼とされている。1955年(昭和30年)公開の『血槍富士』で初めてオープニングに登場し、1957年(昭和32年)公開の『旗本退屈男 謎の蛇姫屋敷』から毎回使われるようになった。


現在使われているものは4代目になり、CG加工された画面が現れた後、一転して波飛沫が岩にかかるおなじみのシーンに変わる。そこにはすでにロゴマークがあり、かつてのように岩の合間から飛びだしてこない。(ウィキペディアより)


戦後日本には、六社の映画会社があり、それぞれに特長あるプログラムピクチャーを製作しましたが、新東宝、大映、日活が倒産、撤退したことで、自社製作・配給の仕組みは崩壊していきました。






松竹  

監督に木下恵介、小津安二郎、俳優に田中絹代、高峰三枝子、上原謙(加山雄三の父)、佐野周二(関口宏の父)佐田啓二(中井貴一の父)などを擁し、女性向け作品、家庭的な作風の映画を得意としてヒット作を飛ばしたが、戦後5社(新東宝倒産後)態勢になるとトップに君臨していたが東映に首位を奪われた後、業績は業界最下位に甘んじた。時代劇は、戦前からの大スターであり剣豪スターナンバーワンの阪東妻三郎(田村正和の父)を筆頭に高田浩吉、近衛十四郎(松方弘樹の父)などを擁したが、阪東妻三郎が他界後は奮わず1960年代に、時代劇の製作を中止。大半は東映に移籍した。以降は寅さんシリーズが看板になった。













大映  

長谷川一夫を中心に時代劇プラス女性映画の印象が強く、京マチ子、山本富士子、若尾文子など女優主演の映画が目立つ。市川雷蔵、勝新太郎が育ったが、両者に続くスターは輩出できなかったため、雷蔵が逝去して倒産。現在は、角川書店が権利継承。










東映  

戦後、東横映画として始まる。東映製作、大映配給が続いたが、東映時代劇七人衆である片岡千恵蔵、市川右太衛門、大友柳太朗、中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵、美空ひばり、が揃うと、「時代劇は東映」を看板に、全映画興行収入の半分は東映が担うという全盛時代が続いた。

さらに新東宝、松竹の受け皿となり、主な時代劇俳優の大半を擁した。
1960年代半ばから映画の斜陽化が顕著になると共に時代劇が斜陽期を迎えると時代劇で培ったスターシステムと撮影所システムを発揮して任侠映画ブームで他社を圧倒する一方テレビ時代劇で力を発揮した。
またアニメにも力を入れ名作を輩出している。













新東宝 

1946年から1948年にかけて三次にわたり、東宝労働争議が起こる。今井正監督や山本薩夫監督など日本共産党員が戦争中から在籍していたことで、労働運動は、従業員の九割、5600名の組合員を持つ巨大勢力となり会社と対決。大規模な争議となり、米軍まで出動。「空には飛行機、陸には戦車、来なかったのは軍艦だけ」という言葉が残った大事件であった。

ストも反対だが、会社側にもつかないと表明した
大河内伝次郎に賛同した長谷川一夫入江たか子山田五十鈴藤田進黒川弥太郎原節子高峰秀子山根寿子花井蘭子の十大スターが「十人の旗の会」を結成して組合を離脱。反左翼の渡辺邦男監督なども組合を脱退し、方針を巡って対立した配給部門の社員は第二組合を結成して離脱した。

1947年(昭和22年)3月、「十人の旗の会」のメンバーと、同時に組合を脱退した百数十名の有志が中心となり新東宝を設立。新東宝製作、東宝配給の体制も一時的にはあったものの独自に配給体制を確立したが、その後主要なスターの流出が続き1961年倒産。東宝、国際放映が権利継承。










東宝 

労働争議の後遺症で、製作再開のめどが立たず巨額赤字を抱え、長く苦悩する。争議後、山本嘉次郎成瀬巳喜男黒澤明谷口千吉監督らは、東宝で映画製作ができないため、退社して「映画芸術協会」を設立。新東宝、大映松竹といった他社での仕事を余儀なくされた。
前述したようにストに反対した十大スターが「十人の旗の会」を結成、大スター、大監督がごっそり辞めたことで、止むを得ず入社したての三船敏郎ら若手俳優がすぐに主役として抜擢、若い監督も活躍の場が用意された。

1950年代になると日本映画の黄金時代を迎え、『七人の侍』や『隠し砦の三悪人』などの黒澤明作品、『ゴジラ』や『モスラ』などの円谷英二による特撮作品、森繁久弥、クレイジーキャッツの喜劇シリーズ、加山雄三の若大将シリーズなど諸作品によって隆盛を極めた。健康的で政治色のない作品が特長。
50年半ばから60年半ばまでは、一番後発の東映、日活が隆盛を極めるが、映画が斜陽期に入ると健全性が功を奏し、東映を抜き、引き離なすことになる。












日活  

1912年(明治45年)3月、国家当局の要請を受けた京都横田商会の横田栄之助の尽力により、資本金1000万円をもとに[1]横田商会吉沢商店福宝堂エム・パテー商会の国産活動写真4商社が合併して「日本活動フィルム株式會社」として創立(初代社長は後藤猛太郎)。

トーキーからの大スターを擁し、名作時代劇を次々に送り出していたが、1942年(昭和17年)には戦時企業統合により、業績の良かった配給部門だけが切り離され、製作部門は大映(大日本映画製作株式会社)に吸収、映画製作から一旦撤退する。

1945年(昭和20年)には大映の興行権を継承し、「日活株式会社」に社名変更。1954年(昭和29年)に映画製作を再開。

1954年、製作再開を果たしたが配給網が確立できていない上、スターがいないために、他社から引き抜いたスターと新国劇の時代劇で凌いでいたが、製作と配給の両面で苦戦した。
新人として獲得した石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、吉永小百合など、若い俳優を主役に据えたアクション映画、青春映画で、東映に続く業界2位に躍進する。

時代劇は東映、現代劇は日活で人気を二分する。その後映画の斜陽期に入ると任侠映画に転じたが奮わず、大半のスターは退社し、1971年(昭和46年)に「ロマンポルノ」と銘打って成人映画専門に着手するが、ビデオの普及に伴うAVビデオに押され失速する。「にっかつ」と社名を変更。







それぞれに特長があるが、なかでも際立っているのは、トップの強烈な指揮権の元、それぞれの時代に合わせて、収益にこだわり、勧善懲悪の明朗な時代劇から不良性感度の強い作品群など、もっとも製作カラーの鮮明な映画会社であり続けている”三角マーク”の東映だろう。


参考文献 ウィキペディア)






東映の歴史



東京・大泉の旧新興キネマ東京撮影所を買収して貸スタジオ経営を始め、やがて映画製作に進出した太泉映畫1947年10月15日設立)と、1938年(昭和13年)東京横浜電鉄(のちの東京急行電鉄)の興行子会社として東急東横線の沿線開発を目的に設立され、東京渋谷横浜で映画館を経営していたが、戦後大映より京都第2撮影所(旧新興キネマ京都撮影所)を賃借して映画製作に進出した東横映画(1938年6月8日設立)、双方で製作された作品配給のために1949年昭和24年)10月1日設立された東京映画配給株式会社が、制作会社2社を吸収合併。

1951年(昭和26年)4月1日、社名を東映株式会社と改めて再出発した。

東横映画を吸収した事からもわかるように、設立の背景には東京急行電鉄が大きく関与している。阪急電鉄創業者の小林一三東宝を作ったように、五島慶太は東映を作った

東横映画には、マキノ光雄根岸寛一を中心に、大陸から引き上げた満州映画協会OBが製作スタッフとして参加しており、そのまま東映に移行した彼らは松竹、東宝、大映に継ぐ後発映画会社である「第四系統」として誕生した会社を担うことになる。





上記のように企業としては戦後派であるが、撮影所は東西ともに帝キネ→新興→大映第二(東横)を引き継いでおり、徹底して大衆娯楽路線を重視する姿勢も帝キネ時代から続いている。


1950年代に入ると、戦前から活躍する時代劇スターの片岡千恵蔵市川右太衛門月形龍之介大友柳太朗らを擁し、さらに東映娯楽版によって若者に人気を得た中村錦之助東千代之介がデビュー。その後大川橋蔵や市川の息子・北大路欣也子役で加わり、東映時代劇ブームを巻き起こして、1956年(昭和31年)には松竹を抜いて配給収入でトップとなり黄金時代を築いた。

しかし、明朗な勧善懲悪の東映時代劇は1960年代に入ると行き詰まり、末期にリアリズムの集団時代劇を生み出すものの終焉]

映画不況が始まった1960年代に入ると時代劇は客が入らなくなり、コストダウンのため1963~64年にかけて、東映京都撮影所の大リストラを敢行し、東映テレビ・プロダクション、東映動画へ大半の従業員が配転される。また取締役俳優である片岡と市川は取締役の地位は留任するもの専属契約が切られ、市川は映画から引退。

演出料が非常に高い渡辺邦男松田定次佐々木康などの時代劇の監督も東映を退社して行った。


現代劇は1950年代半ばから1960年代前半にかけて、中原ひとみ高倉健水木襄佐久間良子梅宮辰夫千葉真一主演スター東映ニューフェイスから輩出。

1957年(昭和32年)には東映東京撮影所の隣に動画専用スタジオを建設し、前年に日動映画を合併して設立した東映動画を移転させた。

1958年(昭和33年)には競合会社よりもいち早くテレビ映画の製作に着手。同年に大泉に東映テレビ・プロダクションとその撮影所を設ける。
観客動員No.1となった東映は1960年(昭和35年)に第二東映を設立し、制作本数を倍増して日本映画界の売上50%のシェアを目指した。同年に第二東映が新東宝を吸収合併し、時代劇を新東宝が現代劇を第二東映が制作する新会社の新東映の設立が仮調印直前まで進むも頓挫]
翌1961年に第二東映はニュー東映と改称するが、うまくいかずに2年で解散した。

1963年(昭和38年)からは時代劇に代わって、明治期から昭和初期を舞台にし勧善懲悪の世界の時代劇の変種でもある仁侠映画[、両撮影所で量産し、1965年(昭和40年)から鶴田浩二・高倉健・藤純子らを擁し約10年続く。

1973年の『仁義なき戦いシリーズ』でヤクザ映画が実録ものに切り替わる。格闘映画では千葉真一と志穂美悦子の作品がブレイクし、千葉の格闘映画は海外でも大ヒットした。プログラムピクチャーとしてのヤクザ映画路線は1977年に終了した。

1975年(昭和50年)に新たなジャンルであるパニック映画新幹線大爆破』を公開したが、日本ではヒットしなかったものの、海外では大ヒットした。同年の『トラック野郎』は『新幹線大爆破』よりヒットしたため、シリーズ化された。    ウィキペディアより)


それにしても一世を風靡した「任侠映画」の終焉は、その前の「明朗時代劇」の終焉に酷似している。代表スターの主演作の客足が落ち、それを補おうとする混迷が続き、次に代表スターが退社して、混迷は深まり終焉した。









2016年4月6日水曜日

野生の男と奔放な女のうず潮のような恋愛




フランスを代表するイブ・モンタンとカトリーヌ・ドヌーブ。大物俳優二人の大人の出会いから再会までのてんやわんやの騒動をコバルトブルーの海を背景に楽しめるお洒落なロマンティックコメディ。
ネリー(ドヌーブ)は、はずみで結婚することになった男のあり方にも環境にも我慢できず、逃げ出してしまう。必死で追いかける男と必死で逃げるネリー。
そのドタバタに巻き込まれたのが、南米ベネズエラの孤島に住むマルタン(モンタン)。ひとり孤島での暮らしを楽しむマルタンはネリーを邪魔者扱いするが、次第にネリーの奔放な性格に惹かれていく。
ネリーの仕掛けるかけひきにイライラしながらも惹かれていくモンタンの恋する男の純真ぶりが可愛い、男は女に勝てない見本。(笑)女盛りのカトリーヌ・ドヌーブはヌードも厭わない熱演。モンタンは汚れ役でも内面の魅力が輝いて渋くてカッコいい。コメディタッチなので気軽に楽しめます。テーマ曲も絶品。