2015年9月13日日曜日

コミンテルと絶対的貧困

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戦争の引き金になったのは、絶対的貧困でした。
絶対的貧困とは、頑張ったら楽になれるというものではなく、いまのシリア難民と同じで、どうあがいても良くなることはない貧困です。
この状況を利用されて、支那事変から大東亜戦争、第二次世界大戦に追い込まれたのが、かっての日本でした。
利用したのはソ連です。
アメリカにいるコミンテルンのスパイと、日本にいるコミンテルのスパイの双方に両国は操られいました。ドイツもそうです。
コミンテルとは1919年から1943年まで存在した、共産主義政党による国際組織です。別名第三インターナショナル。第三と呼ばれるのは前身の組織として第一インターナショナル、第二インターナショナルが存在していたからです。
その罠にはまって起きたのが、2.26事件であり陸軍皇道派でした。結果、皇道派は追いやられ統制派は支那進出を行い翌年盧溝橋事件が起こります。
その一ヶ月後に上海事変、支那事変に発展します。コミンテルンはソ連の一番の脅威であった日本軍を支那や南方に向けさせる事に成功したのです。
結局、日本は大東亜戦争から第二次世界大戦に追い込まれます。最後のカードは東条さんが持つ羽目になります、彼は置かれた現状から逃げなかっただけだと思います。あるいは遅かった。その段取りをしたのは日本に於ける「社会主義論者」です。日独伊三国軍事同盟や日ソ中立条約を締結、新体制運動を唱え大日本党の結党を試み、さらに大政翼賛会を結成した近衞文麿首相らです。当時、彼らこそコミンテルに取り込まれた人でしょう。(ゾルゲ事件)
戦争の張本人は社会主義であることは明らかです。騙されたのは、日本だけではありません。日本を追い込んだアメリカも同じでした。(開戦の動機になったハルノートを書いたハリー・ホワイト米国務長官はソ連のスパイ)
このことから終戦後には米ソ冷戦という直接対決になり、代理戦争の役割を担って実際にドンパチしたのは北朝鮮・韓国の朝鮮戦争です。沖縄、北方領土もその範疇と言えるでしょう。
レーニン〜スターリンが唱えた主義主張は正義でも実際にやったことは世界を巻き込んだ大戦を裏で操り富を手にした巨悪でした。
ソ連の崩壊で米ソの冷戦は終わりましたが、ソ連という政府が終わっただけで、コミンテルンが無くなったわけではありません。
今、現在でも、社会主義国家を形成する為に、コミンテルンは、世界中で、日夜、暗躍しています。
しかも社会主義国家というのは表向きであって、単に権力を得る為に活動しているだけなのです・・・。
かって日本が陥ったように、困窮する庶民に対し、再分配や保護を訴えるという甘い罠を使って、大量の支持を得て、革命を達成させる手口です。
正義の顔をした悪が一番怖い。



画像は2.26事件と絶対的貧困の苦悩を描いた映画「動乱」から



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2015年5月23日土曜日

サカナ



ちっぼけで汚ちっぼけで汚らしい動物 雌
一体生まれてから二十年弱
生きて来たのだろうか 其の上
只 易々と泳いで行くのかしら
たったいま頂戴した言葉 其れ
一体どういう意味を持つのですか
「愛している」と云う腕の中で
只 易々と 泳いで行くのかしら
あたしが足の指五本 踵一個
不思議もなく此処にへばりつける
此のことを詳しく説明して下さいな
唇ばかりをそう見つめる前に
はっきりしないあたしの生態 雌
一体 生まれる迄歴史などが
少しでも働いたと 云えるの
只 安々と 泳くだけなら
あたしが届かない雲の彼方に
不思議も無く厳かに構える
日のことを詳しく説明してくださいな
手を取り優しくそう捕らえる前に 





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正直言うと、夢中になるのが怖い。
怖くなる前に自分を止めてしまう。
うまくいきそうになるとそれで満足する。もういいやって。
自分の内で起こった満足以上に、どんな意味があるのか、考えられなくなる。

好きになる。好きでいてくれる。
好きをイメージできるけれど、共有して進んで行くイメージができない。
本気で恋愛して、自分の気持ちがどうなるのかわからないのが怖い。

ふられるの怖いし、でもそれ以上に自分が人生に乗り出すのが怖い。
だから早めに、思い切って自分から消えてしまう。
ほかの自分のやりたいことと、恋愛を両立させる自信がないし、
楽しいとこで終わっときたいってとこある。
そんな感じで泳いでいる感じ、リアリティがないわけでなく、それがリアリティ。
あたしは水の中にしか生きて行けない。

言い訳がわりに理想を高くしている。
だけど本当はひとつ、いいところがあれば後はどうにでも許せる気がする。
だからますます怖い。
どこまでがあたしでどこからがあたしでないのか。
やっぱり、あたしは水の中にしか生きて行けない









2015年5月17日日曜日

おもてなしは優先順位




「おもてなし」は魅力的だが、音と匂いに鈍感な国と言われても仕方があるまい。

大阪では「都構想」を巡って、5月17日、大阪市民の賛成は否かの投票が行われる。それに限らないがそのうるさいことといえば尋常ではない。

そもそも未だに大音量で告知して回るというスタイルを変えるチャンスだったと思うのだが、そこまで知恵が回らなかったのか残念だ。

政治は会社と同じでやることがいっぱいだ。だから優先順位がすべてだと思う。「都構想」討論会を何度聞いてもよく分からないのは、大阪を良くしたい感情論とお金の話ばかりで、賛成・反対を問わず優先順位を話さないからだ。



結局、日頃から市民の言葉に耳を傾けていないから、そうなる。住民サービスに対する心配りが不足しているのだと思う。音と匂いに鈍感なということは思いやりの欠如でしかない。

おもてなしの出発点だ。優先順位はそこにあるはずなのに。

それでも人によって、区役所では、気配り、心配りが進んでいるのも事実で、その格差が人によって大きすぎる。そういう事実を、どのように評価しているのか気になる点だ。





2015年5月4日月曜日

虚言症……その監禁された愛




虚言症……その監禁された愛


虚言症
作詞・作曲:椎名林檎/編曲:亀田誠治&椎名林檎


しかし何故にこんなにも眼が乾く気がするのかしらね
黄色の手一杯に広げられた地図には何も無い
そして何故に雨や人波にも傷付くのかしらね
魚の目をしているクラスメイトが敵では決して無い

線路上に寝転んでみたりしないで大丈夫
いま君の為に歌うことだって出来る
あたしは何時もボロボロで生きる

例えば少女があたしを憎む様なことがあっても
摩れた瞳の行く先を探り当てる気など丸で無い

徒に疑ってみたりしないで大丈夫
いま君が独りで生きているなんて云えるの
君は常にギリギリで生きる
あたしは何時も君を想っているのに

髪の毛を誘う風を何ともすんなりと受け入れる
眩しい日に身を委せることこそ悪いこととは云わない

無理矢理に繕ってみたりしないで大丈夫
いま君の為に歌うことだって出来る
あたしは何時もポロポロで生きる



自分への愛を確かめるための虚言を放つ君。
自分はそんなことしなくても君をこんなにも信じて愛していると歌う。
虚言と実際のギリギリを歩く君、それを受け入れてボロボロになっている自分。
切なさが響く、美しい歌だ。

かって行った自分の判断や反応が周りに受け入れてもらえなかったら……
あるいは、誰だって裏切られ続けれれば……

自分のした判断の結果がことごとく裏切られると、自分の自然な反応や判断は本当に適切なのかという疑惑に苛まれる。

「君の判断は何も間違っていない」と聞かされても、何もかも間違っているように思える地獄。

咽が乾いていて、水が飲みたいと思っても、過去に悪い水のために大病を経験すれば、そこにある水が飲めなくなる。それと同じだ。

予測不能に陥った<君>は苦しみから脱するために「虚言」を放ち<あたし>の愛を確かめる。

その虚言は大きな損失につながる危険がある。
綱渡りをするかのようなギリギリの生きざまは、それを見ている人間には辛い。

自然な反応として「君なんかに興味ないよ」と思える状態にならない限り、いくら辛くても耐えなければ仕方がない。

受け入れても、受け入れなくても、選択肢は「仕方ない」しか残されていないからだ。
このような選択肢しかなければ、<あたし>の心がボロボロになるしかない。

ギリギリを歩いている<君>とそれを受け入れてボロボロになっている<あたし>。
どうせ仕方ないのなら、どこまでも受け入れていこうという刹那さ。その眼差しの輝きに賭ける。出口なしの監禁された愛。




椎名林檎のデビューアルバムにして名盤「無罪モラトリアム」に続く第二作「勝訴ストリップ」は虚言症で始まり、依存症で終わる。

タイトルの字数がすべて対称系になっている、このアルバムは「罪と罰で彩られた共依存、あるいはそれに近い世界」を描破している。

セクシーな写真や激しいアプローチに騙されずに、林檎の発信する刹那さに神経を傾け自省するのも楽しみ方のひとつだ。

共依存を病気という。しかし依存症は大半の人にとって何らかの形で起っている。依存症があれば「共依存」も起る。

当たり前なのだ。愛は深くなればなるほど共依存に近い状況に陥る。

大切なことは「自分は苦しんでいることを自己認知」することだ。

すべてはそこから始まる。かってパンクスたちが王室に戦いを挑んだように、<あたし>と<君>は自分への戦いを仕掛ける。その敵(魚の目をしているクラスメイトが敵では決して無い)は巨大だ。しかし林檎が歌うことで戦うように<あたし>と<君>も戦う。いつかきっと勝てる!

なぜなら巨大だけど、いつでも勝てる相手だからだ。敵は自分だから。いかさまも出来るんだ。自分にOKだせば、それで勝負あり。いまのままの君でいいんだよって言えばそれでいい。敵を巨大に育て上げているのも<あたし>と<君>なんだ。究極の愛はすぐそこにある。




2014年11月3日月曜日

絶唱

「絶唱」という鳥取出身の作家大江賢次の小説があり、鳥取県伯耆町桝水高原には石碑があり、恋愛スポットになっているそうです。

3度映画化されています。テレビ版は5度もあります。映画版では山口百恵、三浦友和主演のものが一番新しく、といっても、1975年の作品。古いのは小林旭、浅丘ルリ子主演で、自分が入院中のテレビで見たのが、これでした。

全部見ていなくて、その後の作品も小説も読んでいないので、詳しい話は分かりませんが、クライマックスを見ればおよそつかめます。




自分が相部屋の病室で、隣のベッドの人が見ていたのを見たのは、そのクライマックス。

亡くなった恋人に花嫁衣装を着せた上で、三三九度の杯を交わし、その花嫁を抱いた小林旭が森の中に入っていくシーンです。1990年のテレビ版では『絶唱 花嫁の亡骸を抱いて、許されぬ恋の名作』のタイトルで放送されたそうです。


で、自分はテレビ版タイトルの解釈と同じ感覚で見ていました。ところが隣のおじさんはこう言ったのです。「妖気漂いますな」

一瞬唖然としました。ここは観客が泣く場面ですよ。石碑にもなっているくらいの名場面です。

このように同じ事実を見ても、解釈はひと様々。
でも隣におじさんの解釈が間違っていたわけではありません。解釈が違うだけです。
解釈が違えば感じ方も違い、行動にも違いができてきます。

人はこうして違った価値観で暮らしています。
自分の人生を変えようとしたら、価値観を変える以外に方法はありません。

詐欺にひっかかる人は、何度も引っかかるといいます。頭が悪いのではなく思考回路が違うのです。ネットワークビジネスで儲けようとして、結局は損をしている人にも独自の思考回路があります。
ここでいう思考回路とは、価値観のことです。

言うのは簡単ですが、とても大変なことです。
人生観が変わるほどひどい災害にあうとか、大病するとか、大失恋するとか、大転換を引き起こすだけのショックがないと簡単には変わりません。

それを唯一といっていいくらいの転換を起こすのが<Be~在り方>を強制的に見直す機会です。

そこで私どもでは、クリスマス企画として、<ライフスキル講座Beプログラム>を展開します。<ライフスキル講座Beプログラム>は一年に及ぶ講座なので、きっかけとなる募集期間をクリスマスに限定させていただきます。通常の<ライフスキル講座Beプログラム>より、【クリスマス限定のライフスキル講座Beプログラム】の方が中味が濃いのです。


さらに2016年には【世界で一番美しい、人生まるわかり講座2016】の開催が決定しました。


2014年10月11日土曜日

若者よ、「在り方」に自分を発見しよう。



イスラム国に参加する若者が世界中にいる。

ひとつは自由すぎて、何をしたらいいのか分からない人が増えていること。

裏返すと「永遠のゼロ」のヒットがある。どんなものかと思って映画をみたら、同じような話は過去の戦争映画にある。「ホタル」も似たような話だ。



もうひとつは「理想がない」



かって、キング牧師やケネディ大統領にように理想に向かって突き進むリーダーがいた。


たとえば14回映画化された大河小説「人生劇場」では、青成瓢太郎は息子瓢吉に「在り方」を教える場面が登場する。主要登場人物を通して「在り方」を語っている。


この原作を手本にしたものに「青春の門」がある。歌謡曲にもなって歌い継がれた。






思えば、現代に共通していえるのは、「在り方」の欠如だ。


Appleのように、商品の魅力を越えた「在り方」へのあこがれだ。

スティーブ・ジョブズが死ぬまで抱き続けた「在り方」に対峙する魅力。

だからブルーボトルコーヒーのようなところが登場すると、あっと言う間に支持される。


いまの社会には、どんどん欠如している「在り方」への挑戦。

SNSは、その不足をどんどん知らせてくれるツールにもなっている。


見方によれば、とっても面白い社会だ。


ヒトラーは個人的な怒りを政治的な主義主張にすり替え、ドイツ国民を巻き込んで世界を混乱に陥れた。決して怒りは人を幸せにしない。


主体性のない憲法9条をノーベル平和賞にと唱える運動家にも運動することを危惧する。彼らがなにを<在り方>の代わりになにを埋めようとしているのかが気になるからだ。

慰安婦問題の正体を見ると分かるように、そこには<在り方>のかけらもない。



キング牧師のメッセージが胸の打つ理由は、静かに聞けばよくわかる。


自分の得体の知れない怒りを政治にぶつけて対立することで鬱憤をはらすくだらなさは、現代では意味を持たない。


こんなチマチマしたことに一喜一憂せずに、痛快にいこう。キング牧師やケネディ大統領やスティーブ・ジョブスのように。そうすればイスラム国に向かう若者もいなくなる。








2014年9月30日火曜日

温かい笑顔は伝染する


みなさん、『パッチ・アダムス』という映画をご覧になったことがあるでしょうか。
ロビン・ウィリアムス主演のこの作品では、「元気」と「笑い」の効用をテーマにしています。





ご覧になったことのないひとのために、ちょっとだけ説明しておきましょう。

人生に絶望し、自殺未遂をして精神病院に入院したアダムスは、その病院で人生の転機となる出来事と巡り会う。

「笑い」が人の心を癒し、治療になることを知ったのだ。以来、アダムスは人を笑わせ、病んだ人の心を癒すことに生きがいを見いだし、堅く閉ざされた入院患者の心を次々に聞いていく。

そして、その特技を治療に生かそうと自ら精神科医になることを目指す。ざっとこんなストーリーです。

これは、現実にアメリカであった実話で、「温かい笑顔は伝染する」「笑顔は人のため、社会のためになる」ということを教えてくれる、まさに社会力の最高の教材のような映画です。パッチ・アダムス本人はその生涯を「笑いによる医療活動」に捧げ、その活動のために日本にも来ています。

この映画を観ると、「人に与える」ということが、社会力のひとつとしていかに大切なことなのかがよくわかります。「元気」とは、自分のためのみならず、人に与えるためのもの。人のため、社会のためにあるものなのです。

「笑顔」を与えられて「元気」が人から人へ伝えられていけば、社会全体が元気になっていきます。笑いが元気を生み、元気が社会力となる。パッチ・アダムスが夢見たのは、そんな元気(社会力)に満ちた世界だったのでしょう。

こうして考えてみると、「元気」とは、「元気になりたい」という目的ではなく、「人を元気にするためにどうするか」という手段 として語られるのが本来の姿なのでしょう。


その手段を持っている人は社会力が大きいのです。そして、人を元気にするため、社会を元気にするために、自分を元気にしようという手段が、結局その人の社会力となっているのです。

                    (ほんとうの社会力 辻 秀一:著)より