2010年7月27日火曜日

誕生日には花束を

誕生日には花束を

 自分は、過去に「中間管理職」の立場で仕事をしてきて、決定権がない自分、個人として素の自分、そして部下の考えの狭間で、随分と苦労したと思う。
 そんな時、いつもより大きな上位の目標を掲げ、伝え、部下の目線を上げさせることで狭間を脱して、自分も部下も壁を乗り越えた。それだけではない、上位にある抽象的な目標にこだわったことで自分も部下も成長してきた。ひとつにこだわるほど変化が起こった。

 たとえば「ひとりでも多くの顧客にひとつでも多くの満足を提供する」などはその事例だ。それを実行することがどれだけか大変かということも、「自分の心身と部下の行動」を体験した。おかげで「仕事は愛」だと考えるようになった。実感でありやがてポリシーに変化してきた。

 顧客を家族に変えても同じだと思う。つまり愛が最初にあるわけでなく、目標にまい進するなかで困難や障害に出会うたびに、忍耐や犠牲を体験することから、思いやりや感謝が生まれて、その総括を愛と呼んでいるに過ぎないからだ。

 私たちは、先に困難や障害を考えすぎて目標に向かっていかないのだ。

 ・・・・・できるようになりたい。・・・・・こんな人になりたいという。家庭においても、仕事においても、きれいごとの目標が並ぶ。いっぱい並んで、どれから手をつけて分からないまま、どれにも手をつけていない。そして・・・・なりたい。・・・・したい。といい続ける。私たちは「終わり」を不安視するが実際のところ始めていないのだ。心配するなら、始めないことを心配するほうがいい。

 目標を定めるとは、それとは逆だ。どうしても目標を達成するのだから、それが困難であっても関係ないのだ。障害があっても、あるのはつらいが、乗り越えるしかないのだから、乗り越える方法を考えて実行するしかないのだ。つまり障害はあるが、乗り越えるのが前提だらか、障害はあると同時にないのだ。

 自分はいまマイレージを使って、ある期日までにケベックまで行って用を足して帰って来ることになっている。マイレージを使ったことのある方なら、運がよければ別だが、ほとんどの場合、思うような手配ができない。今回も途中までは手配できたが、先は他の交通手段を使う。最寄の空港から目的の最寄の空港にダイレクトに飛んで帰ってくることができないのだ。

 つまり目標を達成するには、いくつものステージができてしまう。ひとつのステージをクリアしたら、次のステージという調子で、いくつものステージをクリアしなければならない。仕事、家族、社会的生活も同じことなのだ。

 目標を持たない仕事、家族、社会的生活には、困難も障害もない。あるのは誰しもくぐらなければならない約束事だけだ。いくつのなったら小学校、次は中学、高校というように続いていく。・・・・・できるようになりたい。・・・・・こんな人になりたい。きれいごとのホンネから遠いきれいごとの目標だけの世界。
 なんのために中学に行くのかと聞かれたら、「義務教育だから」。
 何のために大学に行くのかと聞かれたら、「一応大学ぐらいはね」。
 なんのために結婚するのかと聞かれたら、「ひとりじゃね。」。
 なんのために「ひとりでも多くの顧客にひとつでも多くの満足を提供する」のかと聞かれたら、「お客さまは大事だからね」
 ・・・ホンネはどこにあるのか?ホンネでない目標だから、困難や障害を想定してしまって身動きとれなくなる。

自分は自分に聞く。

「何のためにケベックに行くのか」
「写真集を買いに行く」
「何のために写真集を買うのか」
「励ましてやりたいから」
「なぜ励ましてやりたいのか」
「その勇気をいつまでも持ち続けてほしいから」・・・

 「どうして、なんのために、」質問を自分にぶつけてぶつけて、ぶつけまくる。それをしないまま行動すると、時間とお金のムダになり、心身のムダつまりストレスになるだけだ。燃えカスには虚しさだけが残るだろう。

 ケベックぐらい、誰だっていけるだろう。お金や時間は工面したらできることだ。問題はそういうことではない。ホンネか建て前かの違いだけだ。ホンネを大事にしたら、面倒や目標に向かうのは苦痛でなくなり、怖くもなくなる。

 自分はマイルストーンのことを言ってるのだ。全行程のことをいきなり考えない。1マイルごとに進む。1マイルごとに目標達成力が強くなることをいいたいのだ。そして1マイル達成ごとに「人間は愛だ」と思うようになる。越えてはいけない境界の向こう側とこちら側で会話できるのだ。

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