2010年12月23日木曜日

パーソナリティ障害

ますます人の命を軽視した事件が増加の一途だ。この国の人はおかしくなってきていることは明白だ。自分のことに過度にこだわる人が増えていて、いっぽうで他者への共感が薄れる傾向が顕著だ。

自分の思い通りにならない人はどうでもいい存在として扱うことに抵抗が少なくなっている。その他者は自分と別の感情、意志、考えを持った存在であることを認識できないということだ。それが人間であっても動物であっても、自分の思い通りになる存在だけを愛し、思い通りにならない存在は敵と見なすという極めて理不尽で、不気味な思考パターンに陥った人が増えているのだ。いわゆる「パーソナリティ障害(Personality disorder)」だ。

パーソナリティ障害は、かって「人格障害」と呼んでいたもので「病的な個性」または「自我の形成不全」の状態を言う。精神疾患のひとつに含まれるが、健全者として通常に仕事に就き、優れた功績を残している人は後を絶たない。その特徴は、その他の精神疾患と比べて、慢性的であり全体としての症状が長期に渡り変化しない点にある。しかし神経症なども治癒するまでに数十年の歳月を要するケースもあり、その辺りの判別も難しい。

パーソナリティ障害には、最近増加が著しい自己愛性パーソナリティ障害をはじめ、次のパターンがあります。

クラスターA
自閉的で妄想を持ちやすく奇異で閉じこもりがちな性質を持つ。
・妄想性パーソナリティ障害
・統合失調型パーソナリティ障害
・統合失調質(シグイド型)パーソナリティ障害

クラスターB
感情の混乱が激しく演技的で情緒的なのが特徴的。
・境界性パーソナリティ障害
・演技性パーソナリティ障害
・反社会性パーソナリティ障害
・自己愛性パーソナリティ障害

クラスターC
不安や恐怖心が強い性質。周りの評価が気になりそれがストレスとなる性向がある。
・回避性パーソナリティ障害
・依存性パーソナリティ障害
・強迫性パーソナリティ障害

「パーソナリティ障害」によるあきれた事件は、マスコミが騒ぐ対象だけではない。もっと身近にもっと数多くの理不尽が繰り返されているのだ。
理不尽を行う人には、それなりの背景があり、彼、彼女らもかっての犠牲者である場合が少なくない。その痛みはどのようにして生じたのか、それを知り、彼、彼女らの痛みを分かち合うことをしない限り、パーソナリティ障害をもった人を救うことはできない。
それは簡単にできることではなく、何の知識も持たない人が善意で取り組んでも逆に事態を悪くしてしまうだけの方が多い。

そういう自分も最近、交流分析で言う「ラポ」にはまってしまい、後になってしまったと思ったばかりである。しかし、私はそれを恥じること、さもしいとも思っていない。自分にはしっかりとした行動基準があり、私は私の魂の指揮官として、感情はほぼ完全にコントロールできていて、常に客観視していた。それでもクライマックを想像する点で落度があり、助けることができないばかりか、むしろ強化させる結果になったのではないと口惜しい思いをしたばかりだ。

パーソナリティ障害について、そのプロフェッショナルでさえ、十分な処置ができない状態であり、医療体制も整っていない。唯一に近い状態で「躁鬱病」が薬を出してもらえるような状態である。しかしいまや「パーソナリティ障害」を放置できる状態ではないのだ。

対策の最初の一歩は、まず自分を知ることです。ライフスキルのひとつ自己認識スキルに磨きをかけて、そして次に相手を知ることです。
そもそも「パーソナリティ障害」はなぜ起こるのかについて考えてみましょう。

それには親子の関係について、認識を改めることから始めなければなりません。
そこで、まず子育てのマイルストーンを説明します。ここで注意してほしいのは、それぞれの時期が、バラバラに完了しているのではなく、因果関係でつながっっている点です。

■0歳~5ヶ月 安心認識の時期

 最初の時期の目的は、守られている安心感の内に環境に慣れさせてあげることです。ですからお母さんの守ってあげるやさしい気持ちが大切です。言葉が分からない赤ちゃんとスキンシップで気持ちを伝えていきます。

 この時期の乳児は環境に慣れていく時期です。生まれたばかりの乳児にとっては五感から入ってくるすべてが不安です。母親の保護が頼りの時期で、母親の心からの愛情で、しっかりやさしく抱いてあげることが最大の対策です。

この時期に不安を与えると、環境順応に時間がかかるこどもに育ちます。保護者の五感への配慮が大切です。幼児が不安がるのは止められません。不安の材料を親が取り除いてあげることが親の自立です。

■5ヶ月~10ヶ月 

親離れの芽生えの時期です。
寝てばかりいた乳児が、ハイハイするようになります。

この時期の目的は、環境に対して安全、安心の内に行動で確認させて慣れさせてあげることです。

 幼児には、すべてが「不思議」の対象です。好奇心が旺盛で、触って確かめようとします。危険を心配して、触らないように注意しますが、本人の自由意志を阻害する注意の仕方は好ましくありません。触らない注意をするより、置かない注意をしてあげることが大切です。

 実は、これができるのが自立した親の特徴です。つまり相手を変えることはできないが、自分を変えることはできる。相手をコントロールせずに自分をコントロールします。こどもに注意するより、自分が注意することで、危険を除いておきます。

この時期から、躾の準備をします。躾は親に従うのが基本です。

■10ヶ月~18ヶ月 躾で行動の制約を教える

 ハイハイからヨチヨチへ。行動範囲が広がり、こどもの世界は一気に拡大しますが、同時に危険も増えます。

■18ヶ月~5歳の時期  

こどもの基礎が作られる躾の時期です。

この時期の目的は、制約を教えるために、しつけによって、自分がアクションすれば何でも叶うという万能感をゆっくり排除します。

 育てやすい、自律できるこどもに育てるには、この時期に制約を教えて、自分の限界を教えておくことが肝心です。自分と他者は違う、人と人の間には境界があることを感じさせます。こどもを否定するのではなく、していいこと、してはいけないことをきちんと教えます。

 たとえば、親を叩いたりしますが、「痛い、そんなことをしてはダメ」と教えます。怒るのではなく、落ち着いた態度、表情で、真正面から言葉、表情、態度が矛盾しないしっかりとしたコミュニケーションをします。

かわいいからと、まだなにもわからないからと甘やかすと、万能感を持ったまま、制約も限界も知らない無軌道な大人になる可能性が潜んでいます。まだなにもわからないからきちんと教えておくのです。こどもは小さいときに教えておくほど、手間も労力も費用もかかりません。

 この時期に教えておかずに、3歳~5歳の時期に教えようとしても、こどもも万能感を手放そうとしなくなり、わがままを主張するので、何倍もの労力がかかります。


■3歳~5歳 

親を真似る時期

男の子はお父さんの真似を、女の子はお母さんの真似をします。

この時期の目的は、情緒の安定です。それには父親・母親との間のバランスのとれたコミュニケーションが必要です。夫婦が力を合せて、厳格な父の心、保護的な母の心をしっかり教えるようにします。

 「三つの心」でお話したように、親の心には厳格な父の心、保護的な母の心があります。こどもたちは親の真似をしながら、親の心も学んでいきます。

厳格な父の心からは、自分を抑制する力を身に着けます。母親の保護的な心からは自然な自分を身につけます。

この時期に、お父さんと接する機会が少ないと、厳格な父の心が身につかなくなり、やりたい放題になります。その分、お母さんがお父さんの役割をこなそうとして母性的な気持ちを抑圧すると、こどもは受容されていないと感じて、不安になります。両親の愛情ある関わりが必要な時なので、忙しくてもお父さんの育児参加を計画的に実行します。

それが不可能な場合は、母性的な気持ちを抑圧せずに受け入れていることをたっぷり伝えながら、お父さんの役割を果たすようにしてください。

 結婚した後、厳しく支配的な妻になる女性がいます。しかし他者に対しては気がひけて主張ができないというアンバランスぶりで、これが同一人物かと目を疑うような人です。

このような自立できない依存体質は、この時期に、お父さんと接する機会が少ない、あるいはお母さんの言いなりになっていたお父さんしか知らないのが原因です。父親から自律することを学んでいないのです。

 また、この時期、言うことを聞かないと、叱り飛ばす親を見かけますが、効果はありません。自律が身についていないので、聞いたふりをしているだけがほとんどです。注意しても効果がないのでイライラするし、一層激しく感情的に叱りますが、そんなことにならないように、「10ヶ月~18ヶ月」の時期にしっかりしつけておきます。

学業は、小さいときに習慣化させておくと、大きくなったときも楽です。親の真似をするこの時期は、親も熱心に勉強し、スポーツするようにします。またボランティア活動に親が参加することも大切です。こどもの前での夫婦ゲンカや、テレビを見てごろ寝するようなことはやめてください。


■5歳~12歳 

境界を認識する時期

「自立」を教え、自然に「自立」を受け入れさせるのが目的の時期です。

この時期には、自分と他者は違うことを教えます。その教え方は自分のことは自分でさせる。こどもが助けを求めないのに助けを出さないことが肝心です。

実は、こどもが助けを求めないのに助けを出してしまって子育てに失敗している親が多いのです。たとえば、学校から帰ってきたこどもに勉強しなさいと言うのが、それです。寝る前に歯を磨きなさいと言うのもそれです。

親がこどもの行動に関わると、自分と親は他者とは思えなくなります。自分のことは自分がしなくても親がしてくれると思います。何もしなかったら親が言うだろうと考えるようになります。これでは万能感が断ち切れません。

この習慣が大人になっても続き、会社に行けば、用があれば上司が言うだろう、家庭に帰れば、嫁がするだろうと考えます。自分と他者の境界がない依存体質がすっかりしみこんだ人間になります。

この時期に徹底して教えるべきは、自分のことは自分でする、助けが必要ならはっきり自分で助けを求める意思表示をさせます。

自分のことは自分にさせるには、自分の計画は自分で立てさせて、実行させることです。親は、結果だけでなく、それ以上に様子(プロセス)を見てあげるようにします。

■12歳~18歳 

親離れの時期

 この時期の目的は選択と行動と結果の因果関係を理解させ、最適な結果が出せるように計画性のある行動ができるようにさせることです。

この時期は、境界の認識を深めさせることです。よくある「いい学校に入る」は親の問題でなく本人の問題です。本人が考えて選択~行動できるように育てていく。それが自立のプロセスです。

自分の行動と結果の因果関係と自己責任が理解できるようにします。自分の選択と行動の結果への理解、選択は自分がしている認識を深めます。

その方法は、5歳~12歳の頃とは格段に違います。5歳~12歳の頃は強く言えば説得力もありましたが、この時期は反発するようになります。感情的な対応はますます混乱に誘うだけで、きちんと伝えたらきっと分かると強い信念のもと、穏やかで確信に満ちたコミュニケーションが功を奏します。

 「勉強しないとついていけなくなるよ」と勉強を催促しても、こどもは「大丈夫」と返事します。親にしたら、「大丈夫でない」と言いたいのですが、否定は口論になるだけで互いに感情的になるだけです。まず信じます。「それなら約束してください。今度の試験の点数が80点以下だったら、外出禁止にしますよ。いいですね」と感情的にならず毅然と落ち着いた口調で話します。

 もし80点以下なら、約束した通りにします。自由は良識と良心でできていることを教えます。責任をとれないようなら自由を語る資格がないことを教えます。

それでも、次回も同じようなことになるかも知れません。しかし大事なことは、親の言うことに言いなりに従わせるのではなく、因果関係を自分でマスターすることです。また同じ約束をします。

小さいときに学習を習慣化させておくと、大きくなったときに学業も楽です。
以上、0歳から18歳までの子育てのマイルストーンの概要を説明しました。

ここで注意したいのは、親と子供では全然立場が違うということです。

親は子育ては全体的があると信じ込んでいますが、幼児期のこどもには単一のもので、つまり一回、一回の関係でしかないのです。幼児が持つ一回一回の欲求を満たす人が幼児にとっての良い人であり、満たさない人が悪い人なのです。ですから朝の幼児の欲求が一度あって、それを満たした親はいい人ですが、昼に幼児の欲求があり、それを満たさなかった人は良くない人なのです。そこで親、保護者に一貫性がないと幼児は安心感を持てなくなってしまうのです。思い通りにならないと「悪」、思い通りになると「善」というように認識していくのです。

しかし、現代の親は、ケータイや美容など、自分に関心があることが多いので、こどもの一回、一回の欲求に充分応えていない場合が多いにもかかわらず、全体的にケアしていることで、十分なケアをしていると思い込んでいる側面があります。

このための人生早期に親に対して不信感を持ってしまい、「白黒思考」が強くインプットされてしまうのです。

その上、離婚などによって親がストレスを抱えた状態で、3歳~5歳 親を真似る時期を迎えることになると、子供は不安を覚えることになります。

さらに5歳~12歳の境界を覚える時期に、外部環境との接触を通じて、3歳~5歳の時期に生じた不安が強化されることになり、パーソナリティ障害が生じてくるのです。

親子の関係は、弱愛でも、無関心でも問題があり、終始「バランス」が問われいています。バランスが悪いと不安が強化されてしまいます。私もOK,あなたもOKというように互いに尊重して人権を大切にできる自他尊重のあり方は、自分を愛せる能力が出発点です。自分を愛する能力が不足している状態、つまり不安が自己愛にこだわる自分を作り出し、他者への関心にまで気が及ばないパーソナリティ障害者にしてしまうのです。

特に母娘の関係は干渉が強く、成人しても娘は干渉を受け続けます。母親がパーソナリティ障害があった場合、娘は息苦しさの原因が分らないまま、受け継ぐことになり、それが子供に影響するということが起こっています。パーソナリティ障害は広がる一方になり、最初にあげたような問題が増え続ける状態になっているのです。

では、どうすればパーソナリティ障害から脱することができるのか?
パーソナリティ障害のそれぞれ各タイプにふさわしい対策を打つことにあります。

2010年10月2日土曜日

鞍馬天狗のおじさんは「十三人の刺客」のひとりでした。

この前、夕刻の劇場で、リメイクされた時代劇「十三人の刺客」を鑑賞しました。ほとんど空席なしのヒットのようです。場面によっては観客席から驚きの声がもれます。大変痛快というか、面白かったです。
DVDでオリジナル版を数回観ているので、どうしても比べてしまいます。それぞれに楽しめます。



1963年、時代劇が翳りが見えていたときに、時代劇王国だった東映が作ったオリジナル版の「十三人の刺客」には、無声映画時代からの時代劇の名優ふたりが出演しています。ひとりは片岡千恵蔵、脚本を読んだ後、自分にも出演させろと迫った結果、東映の重役スタアの願いを断るわけにもいかず急遽、脚本を修正して出演が決まったそうです。この役をリメイク版では、役所広司さんがやっています。

もうひとりが鞍馬天狗の嵐寛寿郎。俗に言うアラカンさんと連絡がつかず、東映のスタッフは出演交渉をするために京都中を探し回ったそうです。やっとの思いで見つけた場所がパチンコ屋さんだったそうで、やはり面白い映画だと出演を引き受けたそうです。この役を松方弘樹さんがやっています。

無声映画からの名優ふたりが、太鼓判を押して出演、クライマックス場面では、毎日救急車が2台待機、ほぼ全員がクッション代わりに身体に座布団をまきつけて撮影したそうです。

ところが思いとは違い、予想したほど、客が来なかったそうです。
「こんな面白い映画がヒットしないとは・・・・」嵐寛寿郎、俗に言うアラカンさんは、時代劇の終わりを感じたそうです。

それでも同じ路線の映画が合計3本作られました。3作品全部に里見浩太朗さんが出演していますが、リメイクの松方弘樹さんと共に、東映時代劇の末期を支えてふたりが新旧同じ作品交錯しているのも因果を感じます。

オリジナル版は、公開されてから40数年後の21世紀になってからその価値が認められて受賞したそうです。リメイク版がヒットするのも当然なのです。敗戦後のGHQによる時代劇製作禁止の時代を乗り越えた無声映画からの時代劇の名優は受賞も、リメイクのヒットも知らないまま逝ってしまったのです。

生涯を娯楽作品に生きた、有り金すべてを女に注いでおけら同然で逝った稀代の人気俳優、鞍馬天狗のおじさんであった名優アラカンさんは、「金と時間さえ用意してやれば黒澤ぐらいの映画を作れる監督は他にも何人もいる」といっていたようです。無声映画時代にプロダクションも持っていたアラカンさんは、自分のプロマイドを売りながら、時には米も盗んだそうですが、火の車の毎日でフィルムを買っては、公園で撮影していたそうです。

どんな世界にも夢を追い、追いつき、最期には見放されて・・・・それでもそのプロセスに生きた証しと呼ぶにふさわしい、どんちゃん騒ぎがあるようです。

ぜひ、お時間があれば、オリジナル版と、ふたりの名優の若かりし日の作品にも目を通して、「鞍馬天狗のおじさんは」を読んでみてください。メチャメチャな人生はメチャメチャ面白いです。禁句連発のインタビューにも驚きです!

2010年9月20日月曜日

ライフ・スタイリストは緑色革命を越える

会社勤めを一身上、いえ、一心上の都合で辞めて、身体ひとつ、海に飛び込むような気持ちで、飛びこんで、ドタバタ。会社勤めを一身上、いえ、一心上の都合で辞めて、身体ひとつ、海に飛び込むような気持ちで、飛びこんで、ドタバタ。世界中を旅して、恋して、政治にも、少しは首を突っ込み、なにより、魑魅魍魎とした人間世界を覗いて歩いて、20年。会社にいたら体験できなかったことをさんざんしてきて、ああ、おもしろい。

最大の収穫は「オズの魔法使い」よろしく、幸せとはなにで、どこでどんな風に潜んでいるのかを体験から学び知ったことだ。そういう私のテーマ曲は「虹の彼方へ」の落ち着くのは当然で、iPhoneにはしっかり収まっている。これほど美しい楽曲はない。

さて。お礼と言ってはなんだが、お返ししたい気持ちと伝えたい思いが虹色よろしくいっぱいで、会社設立20周年記念行事として812の夢を叶えるという身の丈を度外視した企画をぶち上げた。

と、いっても当事者に代わって、夢を叶えるわけでもなく、アドバイスするだけなので、できないことはないと、またもや海に飛び込むつもりで掲げた。

そして、これを気に「ライフ・スタイリスト」を名乗ることにした。正確には「ライフスキル・スタイリスト」と言う方が最適かもしれないが、結局は人生を変えてしまう影響力を持っているのだから、「ライフ・スタイリスト」であり、「人生スタイリスト」だ。

そんな職種はないから、自分で名乗って創るしかない。仕事は創るものだから、それでいい。
大事なことは、人の役に立つことである。人の役に立たない仕事ほどおもしろくないものはない。いま巷にある職種のほとんどは人の役に立つ仕事だが、どれほどどのように役立つのかは誰にとっても自分次第なのだろう。


政治の荒廃もひどいと思っている。それが事実かどうかは、誰が決めるのか、しかし国民のひとりとして、そう考えるのは自由だ。それにしても人心の荒廃はひどい。なによりプロフェッショナルの荒廃が目立ってひどい。教え子に襲いかかる教師、守るべき市民を襲う警官など誇りを捨てたら、ただの人を超えて、獣である。

そういうことを20年前から危惧してきた。酒を飲めばクライアント相手に叫んでいたが、どの危惧はますます現実になるばかりだ。

個人的にはこう思う。警官には警官の悩みもあるだろう。教師には教師の悩みがある。畏敬の念を持って接するのが本当だが、そんな気持ちが薄れていく。手弁当で、政治の浄化にも足を踏み入れたが、嘘つきばかりに辟易し、これは太刀打ちできないと早々にあきらめたことも影響している。

「ならず者」という石井輝夫監督、高倉健主演の古い映画がある。この映画のクライマックスに悪玉の黒幕に向かって瀕死の健さんが言う。「オレもお前も同じ悪党だ。しかし種類が違うんだよ」
そうなのだ。ボクだって、不法駐輪、駐車はする。しかしさじ加減がある。ここに止めたら迷惑する人が多いか、ほとんどないかを計算する。

しかしそんなことを全く考慮しない人が多すぎる。そしてこういう町には住みたくないと思う。住んでいる人間がそう思うのだから、旅行者が敬遠するのは当たり前だ。そんなことを放置して観光で経済をふるわせと政治家やニュースキャスターが言う。ハイヤーで移動している者に町は見えないようだ。警察に電話するとたらい回しのあげく「個人のモラルですから」で終わりだ。やる気のないゾンビのような声に「あんたも大変なんだな」と思ってしまい、やる気もうせる。

それにしても、人間の幸福を間違えている限り、人心は乱れるばかりだ。
話せば長くなるので割愛するが、昔どうしても、共感しながらも、矛盾を感じて納得できなかった「緑色革命」という一冊の本がある。いまでは矛盾を超えて、自分の脳と心と身体で納得できるようになった。思えば僕の人生は一冊の本との向かい合いだった気がする。

そしていまは悩む事はなくなった。あるのは、行動する大切さだけであり、注目すべきは行動する時のスタイルである。

スタイルで幸福になれるか、どうかが決まる。美しいスタイルのある人は幸福である。

その想いを形にしたい・・・・それがライフ・スタイリストだ。名乗るのも気恥ずかしいが、それでもなお。まあ、そういうことで手始めにドリーム812プロジェクトだ。

2010年8月1日日曜日

バイブルはビート



 50年代〜ケネディ大統領が暗殺されるまでの60年初期のアメリカは、日本人のバイブルだった。その当時のアメリカの雑誌、たとえば「エスクァイア」の広告を観ると分かる。それは類いまれな立派な歴史書という趣だ。

 その裏には、なかなか日本人が知らなかったアメリカの悩みがあり、第二次世界大戦後の反動的な右翼の波に押し流されながら、反発して順応を拒んでドロップアウトした若者たちの世界があった、

 つまり”ビート”のことだ。ビートジェネレーションは従来の社会の規範かに縛られることなく自由で、根源的な精神を追い求めた。そのルーツはウォルター・ホイットマン (Walter Whitman, 1819年5月31日 – 1892年3月26日)、ハーマン・メルヴィル(Herman Melville、1819年8月1日 - 1891年9月28日)、ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(Henry David Thoreau、1817年7月12日 - 1862年5月6日)に辿り着く。

 その自由な精神はアメリカ植民以来の超絶主義を継承する。”ビート”の根城はサンフランシスコで、サンフランシスコには、ニューヨークにもロスにもない独特の透明な空気がいまでも漂っている。考え抜いて言葉を選び、行動を選択するより、内面からわき起こる自らの声にエネルギーを注ぐことを大事にした。

 言うのは簡単だが難しい。この自らの声にエネルギーを注ぐには、自分を信じる肯定感がしっかりしていることが条件になる。自己効力感も必要だ。そしてそれこそが自由と呼べるものだ。良識と良心がなく、ただ自らの声にエネルギーを注ぐなら蛮行でしかない。そんなものを自由とは言わないのだ。下品なだけの勝手気ままは醜悪だ。

 ソローを読んでみたらビートの本質が分かる。それこそがバイブルにすべきアメリカなのだ。
 たとえば、iPadという代物、つまりアップル製品が好きなのは、いつのアップルにも、どのアップルにもバイブルにしているアメリカを感じるからだ。でも日本のアップルストアでそれを感じることはない。その理由はアメリカから遠すぎる都市だからだ。自己満足して都市生活を送るより、旅の暮らしの不安のなかに生きる磁気を感じたい。

2010年7月27日火曜日

誕生日には花束を

誕生日には花束を

 自分は、過去に「中間管理職」の立場で仕事をしてきて、決定権がない自分、個人として素の自分、そして部下の考えの狭間で、随分と苦労したと思う。
 そんな時、いつもより大きな上位の目標を掲げ、伝え、部下の目線を上げさせることで狭間を脱して、自分も部下も壁を乗り越えた。それだけではない、上位にある抽象的な目標にこだわったことで自分も部下も成長してきた。ひとつにこだわるほど変化が起こった。

 たとえば「ひとりでも多くの顧客にひとつでも多くの満足を提供する」などはその事例だ。それを実行することがどれだけか大変かということも、「自分の心身と部下の行動」を体験した。おかげで「仕事は愛」だと考えるようになった。実感でありやがてポリシーに変化してきた。

 顧客を家族に変えても同じだと思う。つまり愛が最初にあるわけでなく、目標にまい進するなかで困難や障害に出会うたびに、忍耐や犠牲を体験することから、思いやりや感謝が生まれて、その総括を愛と呼んでいるに過ぎないからだ。

 私たちは、先に困難や障害を考えすぎて目標に向かっていかないのだ。

 ・・・・・できるようになりたい。・・・・・こんな人になりたいという。家庭においても、仕事においても、きれいごとの目標が並ぶ。いっぱい並んで、どれから手をつけて分からないまま、どれにも手をつけていない。そして・・・・なりたい。・・・・したい。といい続ける。私たちは「終わり」を不安視するが実際のところ始めていないのだ。心配するなら、始めないことを心配するほうがいい。

 目標を定めるとは、それとは逆だ。どうしても目標を達成するのだから、それが困難であっても関係ないのだ。障害があっても、あるのはつらいが、乗り越えるしかないのだから、乗り越える方法を考えて実行するしかないのだ。つまり障害はあるが、乗り越えるのが前提だらか、障害はあると同時にないのだ。

 自分はいまマイレージを使って、ある期日までにケベックまで行って用を足して帰って来ることになっている。マイレージを使ったことのある方なら、運がよければ別だが、ほとんどの場合、思うような手配ができない。今回も途中までは手配できたが、先は他の交通手段を使う。最寄の空港から目的の最寄の空港にダイレクトに飛んで帰ってくることができないのだ。

 つまり目標を達成するには、いくつものステージができてしまう。ひとつのステージをクリアしたら、次のステージという調子で、いくつものステージをクリアしなければならない。仕事、家族、社会的生活も同じことなのだ。

 目標を持たない仕事、家族、社会的生活には、困難も障害もない。あるのは誰しもくぐらなければならない約束事だけだ。いくつのなったら小学校、次は中学、高校というように続いていく。・・・・・できるようになりたい。・・・・・こんな人になりたい。きれいごとのホンネから遠いきれいごとの目標だけの世界。
 なんのために中学に行くのかと聞かれたら、「義務教育だから」。
 何のために大学に行くのかと聞かれたら、「一応大学ぐらいはね」。
 なんのために結婚するのかと聞かれたら、「ひとりじゃね。」。
 なんのために「ひとりでも多くの顧客にひとつでも多くの満足を提供する」のかと聞かれたら、「お客さまは大事だからね」
 ・・・ホンネはどこにあるのか?ホンネでない目標だから、困難や障害を想定してしまって身動きとれなくなる。

自分は自分に聞く。

「何のためにケベックに行くのか」
「写真集を買いに行く」
「何のために写真集を買うのか」
「励ましてやりたいから」
「なぜ励ましてやりたいのか」
「その勇気をいつまでも持ち続けてほしいから」・・・

 「どうして、なんのために、」質問を自分にぶつけてぶつけて、ぶつけまくる。それをしないまま行動すると、時間とお金のムダになり、心身のムダつまりストレスになるだけだ。燃えカスには虚しさだけが残るだろう。

 ケベックぐらい、誰だっていけるだろう。お金や時間は工面したらできることだ。問題はそういうことではない。ホンネか建て前かの違いだけだ。ホンネを大事にしたら、面倒や目標に向かうのは苦痛でなくなり、怖くもなくなる。

 自分はマイルストーンのことを言ってるのだ。全行程のことをいきなり考えない。1マイルごとに進む。1マイルごとに目標達成力が強くなることをいいたいのだ。そして1マイル達成ごとに「人間は愛だ」と思うようになる。越えてはいけない境界の向こう側とこちら側で会話できるのだ。

2010年7月18日日曜日

幸福に暮らす



 ひとりで食事できる女性が好きだ。世界中どこに行っても、気持ちのよいカフェやレストランでひとりで食事している女性に出会う。

 梅雨も終わりの祇園祭の京都。高瀬川沿いのイタリアンレストラン、隣の席に30代半ばのアメリカ人女性。注文したものを待っている間に、手紙を書いている。よく見る光景だが、日本人では見慣れない光景だ。いつも気になることだが、彼女たちは旅先で誰になにを書いているのだろうか。余計なお世話だ。それ以上は考えない。食事が終わると、手紙の続きを書き、本を読む。ひとりの時間を楽しめる力に微笑と敬意を。

 予定もなく電車に乗る。大阪の中心的なビジネス街から三条大橋まで1時間もかからない。川床でにぎわう鴨川沿いからすぐのところにイタリアンレストランがあった。見渡すと高瀬川沿いのオープンテラスの席に空きがあったので飛び込んだ。

 考えるよりも行動だ。
 そのご褒美なのか、蒸し暑さを風が取り除いてくれる。異国の町でひとりで食事している女性にはどんなご褒美があるのだろうか。ずっと以前、ニュージーランドの街で夕食をとっていたら、昼間カフェでひとりで食事していた女性が隣にいたので、そのことを知らせた。彼女は偶然を記憶していたことを素直によろこび、仲間を呼びいってパーティに招待してくれた。そこで建設会社の社長を紹介してくれて彼とも友人になった。
 大切なことは、幸福にしてもらおうと考えるのではなく、幸福にしてあげようと行動することだ。

降り続いた雨で水かさが増えた鴨川を見ながら、幸福のことを思い浮かべていたら、大好きな彼女に似た娘がチラシを配っていた。通り過ぎるほとんどの人が無視していたので、「チラシちょうだい」と手を差し出したら、笑顔がこぼれた。誰だって自分の存在価値を求めて苦しんでいるのだ。そんな時代に合った生き方があるはずだ。

 そうだ。ボクは大切な人を幸福にするのに忙しい。

2010年6月8日火曜日

永遠の嘘をついてくれ

人は自分のために「なぜ?」と聞く。男は、あるいは女は、それを振り払う。
人は分かり合えないものだから。それが深いものであればあるほど届かない。
届かなくてもいいと思える簡潔な想いがある。

これはこどもの気持ちを持ち続けた大人が、こどもの気持ちを守るの歌だ。
そのために嘘をつく。嘘をつかなければ守り続けてきた大事が失われる。

この曲を知ったのは、NHKが放送していた、吉田拓郎とかぐや姫のジョイント・コンサート「つま恋コンサート」の終盤だ。コンサートは吉田拓郎のパートからはじまりかぐや姫、そして吉田拓郎に戻ってくる。昼に始まったコンサートは、もう暗闇に包まれていた。ボルテージもあがっていて、拓郎にふさわしい夜だ。熱い拓郎を見ると、自分は「たくろうライブ73」を思い出さずにはいられない。音霊と言霊が化学反応した歴史的な名盤だと思う。その再現を見る思いだ。
そこにシークレット・ゲストとして中島みゆきが登場した。この瞬間まで、まったく関心のなかった人だ。凛とした彼女の立ち振る舞いが、その場の空気を変え、その空気が音霊、言霊と混ざり合って、切なくなるほど美しい化学反応を起こした。人は誰でも自分の選択と行動で自分にしかできない人生を生きることが出来ることを体現していた。

その瞬間から、<永遠の嘘をついてくれ>は、もっとも大事な一曲になった。

2010年5月8日土曜日

武士道シックスティーン



 成海璃子ちゃんと、北乃きいちゃんが主演した「武士道シックスティーン」はいい映画だったな。こんなにいい日本映画は久しぶりだな。

 もっとも日本映画ってほとんど観ないけどね。やたら見つめあうシーンが多かったり時間稼ぎしているのに耐えられない。昔の映画はそんなことなかったのにね。製作現場の状況が厳しいんだろうね。それを乗り越えるのが監督やプロデューサーの力量だ。日本映画がハリウッドのようにできないことは分かってるんだ。だから時間と金を投入して作った黒澤映画よりも、石井輝男、鈴木則文なんか好きだね。

川島雄三なんかも凄いでしょう。「幕末太陽伝」はもちろんだが、「洲崎パラダイス 赤信号」なんか、本当は重いテーマなのに、軽くて、爽やか。憎めないんだよね。ひとつの人間のあり様だ。大体が清楚にきれいな新珠三千代だしね。なにより深いので、後から何度も思い出す。どういうときに思い出すのか、脈絡がないようだ。

武士道シックスティーン」のことを言いたいので、成海璃子ちゃんのイメージを大切にしたいから、ここではこれ以上書かない。

 舞台挨拶も観たけど、成海璃子ちゃんは本当にいい子だと思うね。「いい子」って表現は必ずしもいい上等な表現ではないし、時には相手を傷つける。「武士道シックスティーン」の磯山香織がそうだね。成海璃子ちゃんの役ね。観ていると成海璃子ちゃんが重なってきてね。似ている部分もあると思う。後はわからないけどね。似てないことを祈ってあげたい。

成海璃子ちゃんに似た子を知っているんだ。雰囲気が本当に似ていて、10人が10人、称えるような子だよ。でもそれが本人にとって幸福なのかどうか分からない。ムリしていないといいんだけどね。
西荻早苗もそうだね。性格はお気楽だけど、それだけではない。北乃きいちゃんも良かったね。初めて観たけど、すごい女優になるんだろうなと思った。この共演はすごいね。とにかく主役の二人がものすごくいい。引き出した古厩智之監督自身が青春の巨匠なんだろね。

武士道シックスティーン」は、広告を買って出てくれる映画のサポーターを探していたりして苦労してるんだ。日本映画って青春そのものなんだと思う。石井輝男監督が高倉健と組んだ「ならず者」は香港でロケやってるんだけど、健さんが撮影用のカメラなんかを背負って移動している話を聞いたことがある。そんな健さんを見ていて、石井監督は「もう少しだけ我慢していてな。きっと売り出すからね」と言ったとか。その後、二人は「網走番外地」シリーズを大ヒットさせて頂点に立った。金ない、日数がない。そこから観客を集めて心揺さぶることをするのは本当に大変なことなんだよね。思い入れだよね。

成海璃子ちゃんには、まっすぐな揺さぶりを感じるね。

8食抜いても元気になる「武士道シックスティーン」は、DVDになったら、お宝だ。






武士道シックスティーン 公式サイト