2015年12月22日火曜日

イノセンス、リスペクト・・・愛すること



男は女を愛すること、愛されることで、自分のなかにこれまでと違う自分を発見する。それによって成長もするし、変化もする。

男にポジティブな変化が起こると、女はリスペクトを体験する。
逆も同じだ。そうしてお互いの人生にダイナミックな変化が生まれるチャンスを得る。
恋すること、愛することは、イノセンス、リスペクト抜きに語れない。
不器用な愛は、形は悪いかもしれないが、お互いが分かっていれば、気にすることはない。そこにイノセンス、リスペクトがあれば光輝く。

恋すること、愛することは、イノセンス、リスペクト抜きに語れない。

もし、イノセンス、リスペクト抜きの恋や愛があるなら、もうすでに終わっている。

可愛いい女、優しいだけの女は好かれるが、その恋は長続きしないし、結婚してもマンネリはすぐにやってくる。そんな女の代理はいくらでもいるから、浮気が起こる。浮気しても結局は同じだ。

大事なことは、相手をリスペクトする力を自分が発揮することだ。

人生とはただ安泰を求めて暮らすものではない。

子どもは安泰のために遊んだりしない。
男の子がボールを追いかけるのは可能性を求めるからだ。女の子が着せ替えごっこで遊ぶのも可能性を求めるからだ。可能性とは命の有り様だ。



イノセンス。純真とは命の有り様に他ならない。

いい人は純真ということではない。俗に言う「いい人」がひどい人であることは少なくないし、純真と純粋は違う。

自分の人生に影響を与えた好きな映画が三本あります。

どれも古いものですが、「マンハッタン物語」「リオの男」「冒険者たち」
ジャンルも違うし、共通点は一見ないように見えるが、一生懸命に生きる、命の有り様を見せる男が登場する。一生懸命の仕方は違うが、子どものように純真だ。

たとえば、「マンハッタン物語」の主人公は人の良い女の好意には無関心に近いが、ひとりの女のためには人生を変えることさえ厭わない。「リオの男」は誘拐された恋人を奪還するため、子どもがひたすらボールを追いかけているように走って走って走る。「冒険者たち」の主人公は、死んだ女がたまたま言った夢を引き継いで生きる。


「所詮、映画ですから」という言葉のそこにイノセンスもリスペクトも「命の有り様」もない。「命の有り様」は姿、ところ構わずに潜んでいる。





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