2012年9月17日月曜日

パンケーキのつぶやき



一生とは、永遠のことではない。
たった数十年のこと。

・・・・・・・・・・・と、言ってます。



2012年9月8日土曜日

子育て頑張れ〜ッ



家庭は両親が子どもを保護し、成長していく場所ですが、時と場合では、その役目を果たさず、安全を脅かす場になることもあります。児童虐待はその代表ですが、「よい子」を求めすぎるのも強い圧力になります。

いじめ問題も 法によって過激に取り締まると、「悪の面」を学ぶ機会が失われます。「性」の問題も抑圧されると本来の無邪気な子どもの側面が失われ、健全な発達ができなくなります。 体験を通じて、 人間には基本的な心として、厳格な親、保護的な親、大人、従順な子ども、無邪気な子どもの5つが宿りますが、なかでも無邪気な子どもの心はいきいきした成人になる上でも重要です。

あまりに「よい子」を求めすぎるのは決してよいことではなく、ストレスを与えることになり、逆に歪んだ性格を形成してしまう危険があります。表向きはいい人、その実態は。。。というようなより危険なことにもなりかねないのです。

介護の問題も同じで核家族化した現代では、老いた祖父、祖母の姿を目にする機会もないので、どうしたらいいのか分からず、専門機関に頼ろうとします。しかし、十分にケアできる施設もなく、利益追求に走る介護ビジネスの現場では、老人に対して残虐なことが起こっているのも事実です。

かってセーフティゾーンであったスラム街はどんどんなくなり、 私たちは なにが安全で、安心なのか、その本質を知ることもなく、 きれいな場所に暮らし、うわべだけの安全に見える場所に住んでいます。目障りはなにごとも
刹那的に覆い隠されて、「はい、一丁あがり」の恐怖は身近にあり、その傾向はどんどん進んでいるのです。しかし目障りにはそもそもの原因があるのです。

原発も、介護も、いじめも、開発、性犯罪の恐怖も、根はひとつだと思わずにいられません。

どうしていま、ブータン、ホスピタリティなのか、当たり前にあった気配り、気遣い、親切が消えてひさしいからではないのかと、ちょっとイラッとしています。 素敵なヤンママ 、狂った常識、いかれた政治のなれのはての法律、風潮に負けずに、子育て頑張れ〜ッ、フレフレ♬


2012年8月25日土曜日

物々交換で夢を交換する



「台北カフェストーリー」という映画が面白いです。「夢と夢を交換してもいいんや」これいいでしょう。ところで「ネガティブとポジティブを交換したい人いますか?」

ネガティブ思考が強くて困ってる人がいます。ポジティブな自分に変えたいそうです。
いいことですが、だからといってネガティブが全部悪いわけでも、必要がないわけではありません。

バランスの問題なのでネガティブを減らせばポジティブが増えます。思考の習慣を変えたらできます。思考の習慣を変えるにはどうしてネガティブ思考が多くなったのか原因を知っておくといいでしょう。

そもそもネガティブ思考が強い人は、 まだ大局観を持てない子ども時代に、自分のアプローチに対する大人の反応を見て、 ネガティブであることにメリットを感じたから習慣化してしまったのです。つまりラケットに味をしめて多用するようになったのです。ポジティブ思考の人はポジティブにメリットを感じたのです。

ネガティブ思考だと、感謝することは少なくなります。してくれて当たり前とかいうようになるからです。ニュートラルから考えるのではなく、自分がプラスマイナスから考えてしまいます。ですから当たり前でない場合は感謝ではなく負い目になります。今度は自分が借りていると考えてしまいます。

どっちにしてもニュートラルがないのです。このような人は日頃から何かにつけて他者と比較してしまう習慣があるので、競争的な生き方をしています。競争的な生き方から感謝は起こりません。

ポジティブな人は ニュートラルでもっと自由です。束縛していません。束縛している、していないは自分の行為です。でも束縛から身を解き放つ方法が分かりません。束縛しているとは自分では思っていないからです。勝手な思い違いです。

ここにも思考の習慣があります。思考の習慣だって自分の選択なのです。 物々交換に競争的な思考を持ち込んだら交換は出来なくなります。「王子と乞食」という物語がありましたね。

2012年7月30日月曜日

大阪ぎらい物語



「ぼんち」という古い映画(市川雷蔵・中村鴈治郎主演)があります。「ぼんち」とは「ぼんぼん」とも呼ばれる存在。ぼんち揚げというお菓子のことではなく、船場の若旦那さん、跡取り息子のことですね。「勘当や、出て行けーッ」とやられる放蕩息子のイメージにつながります。情熱のすべてを遊びに投げ込んで生きる。そのストレートさは爽快でさえあります。大阪のキタ、ミナミという呼称は、船場が基準になっていたようです。

井原西鶴の処女作「好色一代男」という傑作がありますが、これなどはHひとすじに生きたぼんちの最たる例でやっぱり爽快、こんな生き方、昔なら画家さんなんかが代表格です。商売には目もくれず、絵に投じた情熱と同じほど芸妓遊びに注ぐ。遊び方が半端やありません。いまでは絵画よりロックかも知れません。

「勘当や、出て行けーッ」」と言われた「ぼんち」が人力車の車夫になる。ここらがなんとも粋ですね。昨日まで遊んでた芸妓が道を歩いていたら、なじみの「ぼんち」がぷかぷか煙草ふかせて客待ちしてる。こうなると「ぼんち」は無形文化財になる。そのあたりの話を洋画家鍋井克之氏が随筆に温めているのが「大阪ぎらい物語」です。

この随筆をタイトルそのままに脚色され、名作に仕上げられたのが、有名な劇作家、館直志こと先代の渋谷天外氏です。松竹新喜劇で公演、藤山寛美さんが実生活そのまま?に演じたので味がにじみ出たことでしょう。



ついでに車夫の話をもうひとつ。
面白いのが紙屋五平原作の「車夫遊侠伝喧嘩辰」こちらは御荷物御車を旗印に、乗ったお客を荷物扱いする東京から流れてきた江戸っ子気質の車屋・辰五郎と浪花芸者・喜美奴の炎のような恋を綴った快作。この大阪のことを書く紙屋五平氏のことが知りたいのですが、よくわかりません。

自分がコンサルさせていただいていた企業さんにも、この「ぼんち」タイプの方が何人もいらっしゃいました。しかし仕事に面白さを覚えたら仕事に人一倍励むから面白いですね。「一途」というのは才能のひとつなんですね。

2012年7月15日日曜日

不死鳥、福井



戦争末期、米国は福井を徹底した空襲で90%以上焼き野原にしました。県庁所在地でここまで焼尽したのは数少ないと言います。お隣の金沢にはほとんど手をつけていません。
福井には紡績工場が多く、パラシュートを製造していると見られていたからです。
戦争が終わり、焦土と化したふるさとを復興しようと立ち上がった人々を、昭和23年(1948)、大震災が起こり再び人々を打ちのめします。やっとの思いで再建した家を失い、家族を失い、大切な人を失い、絶望に打ちひしがれました。悲劇はこれで終わりではありませんでした。翌昭和24年(1949)には、水害が福井を呑み込みます。三たび、叩きのめします。僅か5年ほどの間に東北大震災のようなことを3度体験したと考えてみてください。想像を絶する苦難です。
福井の人々は、それでも歯を食いしばって血のにじむ思いをして立ち上がります。そうして厳しい自然環境を受け入れて、現在の「幸福度全国ナンバーワン」と感じる「福井」を築いたのです。学力全国ナンバーワン、社長輩出率全国ナンバーワンのマンパワーの土台になっているのは、不死鳥福井の精神が風土として人々のDNAになっているからではないでしょうか?
福井人の魂の象徴として 、街の中心部の道路はフェニックス通りと名付けられていて、そこにはフェニックスホールもあります。東京で言えば武道館、大阪で言えば京セラドームのような存在で大きなイベントはここで開催されます。
大飯原発で揺れる福井ですが、大飯町は厳しい寒村、生きるために原発を誘致した歴史があります。名作「飢餓海峡」を書かれた作家水上勉氏は大飯の出身で、貧しさから9歳で京都の瑞春院に小僧として修行に出されています。生きるって大変なことだと感じる一方で、誰かが責任を引き受けなければ国は成り立たず、ひとりひとりが責任を引き受けない限り幸福な暮らしはないのだと感じる夏の夜の福井城址、お堀の灯りでした。

2012年7月14日土曜日

道頓堀の牡蠣船



道頓堀では芝居茶屋が繁盛しましたが、繁盛したのは地上だけではなかったようで、水上でも大いに賑わったといいます。その第一人者が広島からやってきた【 牡蠣船 】です。時は元禄、屋形船を岸につけて牡蠣料理を出し接待などに使われ繁盛したそうです。

いくら水上といっても勝手に営業することは当時をもってしてもできませんでした。それが可能になったのには物語があります。1708年のこと、大阪で大火が起こった時に、牡蠣船を考えていた任侠の人、甚左衛門なる人が牡蠣商人を集めて被災者の援助に力を尽くしたのです。この貢献に大阪奉行は応え川のあちらこちらで牡蠣料理を出すことを許可したのです。

昭和初期になると人気の牡蠣船にあやかってビヤホールまがいの船が出たり、一般の料理を出す船も出たそうですが、公の許可を得ていたのは牡蠣船だったので、トラブルにもなったそうです。

昭和40年(1965年)には道頓堀川改修工事が始まり、大阪市との間で立ち退き交渉が始まりました。当時8隻の牡蠣船があったそうですが、42年2月に最後の牡蠣船「かき秀」が解体され、ついに元禄以来250年も続いた歴史は終わりを迎えました。

その歴史の一端でも知っている人も今では少なく、やがて語り継がれることもなくなりそうです。一度は体験してみたかったですね... (◑.◑)

2012年7月13日金曜日

グリコの看板

道頓堀川、戎橋の横にグリコのネオンが設置されたのは、昭和10年、西暦1935年のことです。この看板は当時としてはびっくり仰天、33メートルの高さもさることながら、ランナーとグリコの文字が6色に変化するのに合わせて1分間に19回点滅するというゴージャスなもので、登場すぐに大阪ミナミの名物になりました。

悲しき戦争が始まり昭和18年(1943)厳しい局面を迎えると鉄材供出のために撤去されます。しかし戦後、ようやく落ち着き始め復興の勢いが出て来た昭和30年(1955)には、2代目が登場します。ネオンの下部には特設ステージが設置され、 かっての敵国から流れてきたロカビリーブームに乗ってロカビリー大会が開催され、浪花のプレスリーが大挙駆け上ったようです。

高度成長期に入った昭和38年(1963)、東京オリンピック前年には3代目が登場、12トンの水が150本のノズルから噴射され、さらに12色のランプ400個が 照らし虹を出すという噴水のついたネオン看板になりました。噴射された水は循環するといういよいよゴージャスなものでした。

1972年(昭和47年) 2月5日には4代目が掲げられ、 そして隣接するビルの改装に伴い1996年1月21日に消灯。その翌日から撤去されましたが、その後1998年(平成10年) の七夕前夜7月6日に5代目が登場し、現在に続いています。

2003年4月11日、道頓堀 グリコネオン (中央区) は、大阪市指定景観形成物に指定されました。他に同時に指定されたものは、次の・大阪市中央公会堂 (北区)、 お初天神 (露天神社、北区)、大阪城天守閣 (中央区)、 通天閣 (浪速区)、 一心寺 (天王寺区)、 住吉大社 (住吉区)など11ヶ所があります。




2012年7月12日木曜日

一寸六分の懐石料理

東京と大阪では微妙に違うものが沢山あります。
道頓堀に並ぶ、鰻屋、寿司屋、蕎麦屋などもそうで、ことごとく違います。たとえば寿司と言えば握り寿司を連想しますが、昔は違いました。寿司といえば両者ともに箱寿司だったのです。




ところが1820年代( 文政初年)に東京で変化が起こります。華屋与兵衛という人が握り寿司を考案します。この屋台の酢飯を手で握って作る握り寿司を、大坂では「そんなもん料理ではない。大坂は日本一の商売の街や、お金持ちがたくさんいる。そんなもん食うか。」と見下していました。大坂では箱寿司を「一寸六分の懐石料理」ととらえていたのです。

しかし江戸で誕生した握り寿司も徐々に広まります。1892 年(明治25年)になると大坂にも進出してきます。やがて大阪の寿司も大きく変わる時を迎えます。
1923年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災です。この後、東京の職人さんが大挙大坂にやって来たことから大阪の寿司事情も変わり始めたのです。握り寿司誕生から実に100年経っていました。

いまはなき中座の前あたりに「元禄寿司」さんがありますが、ここが回転寿司を日本で最初に考案したそうです。自分が学生の頃にすでに回転寿司やっていたのを記憶していますが、ここには「松川」という芝居茶屋の一軒があったそうです。

2012年1月12日木曜日

君よ、永遠の嘘をついてくれ



あるところで、仕事中に絶対にしてはいけない行動をとった人がいた。
苦し紛れに、その原因をボクのせいにした。それも二度だ。周囲は自分を悪者扱いしたが、幸いに上司は本当を見抜いていて、状況を騒がしくしないためにも、目でボクに知らせた。ひとり我慢してくれということであり、それを拒む事はないだろうと信じてのことだ。その上で上司は当人の気持ちを察して大人の対応をしたおかげで、本当のところでは誰も傷ついていない。
同じことが、別の場所、別の人物でまた起こった。
今度は上司が読めずに、嘘を信じた。否定したら、職を失うだけでなく、笑い者にされてしまうと考えて、 悪者を引き受けた。その後は知らない。今度は当人が傷ついたに違いない。自分もかすり傷程度は受けた。遠山の金さん、大岡越前はやっぱりスゴい。
当然だが、嘘にいい思い出はない。特に第三者を介在させた嘘はいいようになるはずがない。
しかし「永遠の嘘をついてくれ」という歌の場合は事情が変わる。
随分と仲良くしてもらっていて、海外旅行も何度もご一緒したある会社の豪傑社長が退任してから数年したら、ぴったり連絡が途絶えた。猫が人目を避けて死に場所を求めて去って行くように目の前から消えた。 傷ついた獣たちは最後の力で牙をむいているのだから 、こちらもさびしがり屋の強気に知らんフリを決め込んで年末年始には「元気に逝ってくれ」と願っている。
「永遠の嘘をついてくれ」という歌がたまらなく好きだ。


中島みゆきが作り、当人も吉田拓郎も歌っている。特に「つま恋コンサート2006」の競演、ばか騒ぎは何度観ても感情が高まる。
中島みゆきを初めてこんなにもカッコいい人なんだと思い知った。拓郎さんもこれが最高にカッコいい。どちらもいいが、なにより詩がいい、曲がいい。
いますぐニューヨークでも上海でも行きたくなる衝動にかられる。
人は自分以外の人を助けるとか良くする場合を除くと、目的を達成したがるのは、目的そのものでなく達成したときに味わう感情であることが多い。
ということは、かたち的に達成されていなくても、達成されている事がこれ以上ない確かさで 絶対的に感じ取れたら、それでいい。
永遠に、その幸福は続く。種明かしは水をさすだけだ。
言葉で確認していないことは、本人の妄想に過ぎないという人がいるか、果たしてそうだろうか。どうしても言えない場合がある。
♪たとえ、繰り返し、なぜとたずねても
ふり払え、風のように鮮やかに、
人は皆、望む答えだけを聴けるまでも尋ね続けてしまうものだから・・・・
君よ、永遠の嘘をついてくれ・・・・・
目の前の現実に 意味づけするのは自分だ。
自分でできるように、言葉で伝えきれない真実を命こめて伝えてくれていて、こっちにも命こめて受け取る力もある。
人生の奇跡や魔法の、種明かしはしては台無しになるばかりだ。
永遠の嘘をついてくれ・・・この歌を貫いている幸せな「覚悟」が好きだ。







2012年1月5日木曜日

心のバランス、幸福のバランス



あわただしく動いていると、いかにも仕事をしているように見える。
見せかけの勤勉さは、生きる知恵になっても、自分のためにはならない。

実際には じっとしているほうがずっと難しい。
仕事とはあわただしいもの、騒がしいものと教え込まれ、信じてきた人であれば、何もせずじっとしていることはほとんど不可能だ。

さらに甲高い声で奏でられる音楽を癒しにしていると、ますます騒々しさが活動だと勘違いするのも無理はない。

しかし、これだけははっきり確信を持って言える。


立ち止って、一人っきりで、誰からも邪魔されず、静寂のなかに身をおけば頭の中は自然と冴え渡ってくる。

話すのをやめ、耳を澄ませば、心の底から聞こえてくる音がある。声が聴こえてくる。
奇跡が遊んでいるリズムが聴こえてくる。

見えないものが見える人、聞こえないものが聴こえる人は、そのようにするから見えるし、聞こえる。
それがどういうことをもたらすのか。

知りたい人には知ることができる。
人は自分が望む以上のことは決して得られない。


2012年1月3日火曜日

虹の彼方へ行く方法


幸福な成功を成し遂げた者は、毎日同じことを繰り返し言葉にして、繰り返し行動している。
どうだろう?
今日やるべきことを書き出してみよう。
もしそれが7つもあれば、生活のあり方を見直すべきだし、同時に自分のあり方を考えてみたほうがいい。
本気ならひとつしか書き出してはいけない。最大で3つだと思うが、ほとんどの社会人ならそうはいかないだろう。
心理学者ウィリアム・ジェムズは「 賢さとは、何を無視すべきかを知っていることである。」だと言ったが、人生を台無しにしたくなければそれに従うべきだ。

ある講演で、一番大事なことはなにかと質問された時、思わず「本気です」と答えた。
後で答えになっていないと思ったが、実は答えなのだ。
答えになっていないと思ったのは、質問者には理解できないだろうと思ったからだ。
もっと丁寧に答えるべきだが、それでは同じ話を最初からリプレイしなければならない。
ウ〜ン、難しいと思ったものだ。

仕事人間は、どんな小さなことも見過ごせない。
感情のコントロールが上手でない人も同じだ。
起きている間、常にアンテナを張りめぐらし、他人のたいして気にしていない言動にも、気を回してどんなことでも受けて立つ態勢を整えている。
それでは物事をシンプルに考え、生活を簡素にすることは決してできない。
自分の場合、旅をしながら仕事をして、人を愛して暮らすのが理想だと考えている。
その気持ち良さを体験したら、生活はシンプルが一番だと考えるようになっても無理はないと思う。
だからそのように時間をかけて創ってきたが、 願いが実現できたわけでもなく、まだまだシンプルになれると信じている。





私たちは、数えきれない種類の獲物を追う猟犬のように飼いならされている。
ほとんど人は、飼い主が誰かさえも分からないでいるが、自分には見当がついていて、そこからの解放を仕事にしているといっても言い過ぎではない。
私たちは獲物の臭いを片っ端から次々に嘆ぎとっていくが、決して獲物にありつくことはないようにできている。
やることはいっぱいだが、自分の気持ちの整理といえば全くお構いなしだ。
どこにでもゴミを捨てる人が増殖するが、心のゴミの始末も他人に押し付けて平気だ。
捨てられたゴミは税金を使って処理されるが、他人に押し付けたゴミは狂気を増殖させ互いに傷つけ合う。
こうして自分を忘れることに事欠かない都会生活者が暮らす都会からゴミの山になっていき、やがて地方に押し付けられる。
あらゆることが中途半端に終わる。
江戸城でも、大阪城でも、いまのテクノロジーをもってしても完成させることはできないことは明白だ。権力だけの問題ではない。集中力がまるで別物なのだと思う。
何が大切かを絞り込んだら、焦点を合わせて、枝葉のことは忘れなければならない。
大切な夢はひとつでいい。
大切な人はたくさんいるが、世界で一番はひとりしかない。
生涯一仕事。
それでいい。


70年前にこの<虹の彼方へ>にこめられた知恵は未だに活かしきれていない。
私たちは賢さを取り戻さなければならない。