2011年3月3日木曜日

ひな祭り




野球でもフットボールでも、プレイとプレイの間に、考える時間があります。

つまり緊張と緊張の間に弛緩の時間があるように、暮らしにも「まつり」があります。

「まつり」と祝祭日は、異質なもので、特に「憲法記念日」などは憲法を考える日であって、遊び浮かれる日ではないのが本来です。

であるなら、祝祭日以上に「まつり」は、チアガールが力を発揮するように、弛緩を意味するのではないかと考えるわけです。弛緩は緊張が強いほど、その効果も大きく意味を持ちます。

チアガールの美しさが際立ちのも、緊張したプレイが続くからで、これがやる気のないプレイの間に行われたら、全体が胡散臭いショーのようにしか映らないでしょう。

緊張がなければ、つまらない暮らしになるのは道理です。

野球でもフットボールでも、プレイとプレイの間に、考える時間があります。

ゆるい人、つまり自分のような人のことですが、自分の場合、ゆるいなりにポリシーがあるのです。踏まれても蹴られても懲りずに暮らしていく。好きになった女を守るためなら、自分のためならできない我慢でも引き受ける。それでいて忠臣蔵の大石内蔵之助に見習って、我慢していることなんか何ひとつないような顔をして暮らしていく。

弛緩を強要されで生じた心のすき間では妄想チアガールが応援してくれる。ここまでくるとクレイジーだけど、それでいいのです。それは、あきらめでも、やけくそでもなく、覚悟なのです。

覚悟して生きるから「まつり」があります。緊張のない仕事、緊張のないカップルには「まつり」はなく、遊びがあるだけです。

「渋谷女祭り」の言葉の響きにはインパクトのあるカッコよさが届くけれど、これが「渋谷女遊び」では、だらしなさしか浮かんでこないようにね。

ひなまつりは、幕末になって「遊び」から「格上げ」されたようですが、「遊び」に戻らないようにしてもらいたいものです。手帳を広げて「まつり」を書き込みませんか?

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